T-STAFF39とは
概要
1984年結成の播州発祥のローカルバンド。
コピーを一切やらず、オリジナル一本で活動した。当時人気のJPOPの草分け、「オフコース」のコピーバンド「FeCr(フェリクローム)」のリーダー橋本俊之、実質音楽理論、アレンジの中心である春野満、永遠の58歳入江康博を中心に、偶然観に行ったライブで気に入った佐々木宏(drum)、橋本と高校三年が同クラスの安東保志(guitar)を加えて主に活動した。播州地方でのローカル活動、当時のバンドマンが目指した「ヤマハ ポピュラーソングコンテスト」(通称ポプコン)を目指していたと言われる。加古川まつり、今や禁止となった須磨海岸での野外ライブなどに出演。1987年加古川市民会館小ホールでの解散コンサート (T-STAFF39 Final Active) にて解散した。2019年、佐々木宏の呼びかけにより活動を再開した。
ユニット名の由来
リーダーの名前が俊之ということでもなく単に「T-STAFF」がかっこいいと言うことになり、全員が昭和39年生まれであったため、成り行き上「39」がついた。T=「辰年」という気もする。メンバーが打ち合わせをした場所が、当時加古川駅前にあった春野満の実家であった。春野の親族には相当ご迷惑をおかけした。のちに何を考えたかステッカーも作成された。
読み方
様々なライブ会場で司会を悩ませる結果となったバンド名は、「ティースタッフ・サーティーナイン」である。初見で読めた司会者はいない。
メンバー 1984年当時
橋本 俊之 Toshiyuki Hashimoto リーダー
キーボード、作詞、作曲、ハモリリーダー、マイク担当 通称:社長
安東 保志 Yasushi Ando
ギター、作詞、作曲、ファッションリーダー 通称:副社長
入江 康博 Yasuhiro Irie
ギター、作詞、作曲
佐々木 宏 Hiroshi Sasaki
ドラム、練習場所オーナー(佐々木の自宅が消音練習場だったため)
春野 満 Mitsuru Haruno
ギターからベースに変更、作詞、作曲、プロデューサー
中田 幸一 Koichi Nakata
ベース(当初メンバーとなったが、活動開始前に脱退)
メンバー 2019年より参加
古田 裕司 Yuji Furuta
ドラム あらゆるジャンルをこなす。スネアコレクター。
安東 恭司 Takashi Ando
ベース 運転役の担当多し 安東保志の実弟
ビートルズのカバーバンド「ビコーズ」のメンバーでありその関係で人脈が広い
武田 昇 Noboru Takeda (通称 のんちゃん)
ギター 超良い音がするオールドマーチンを持っている 寿司屋経営
堀内 大 Dai Horiuchi
ギター 超絶テクニックのJAZZギターリスト
必見のYoutubeチャンネル
横山 淳子 Atsuko Yokoyama (通称 あっちゃん)
キーボード わんこと酒を心から愛する引く手あまたのキーボーディスト
ゲストパフォーマー
メイスン @Mei_Soon
関西から東京に羽ばたくマルチアーティスト
音楽ジャンル
そもそも「オフコース」のコピーバンドのメンバーが核となっており、当時人気していたラブポップスを奏でる。さらに深く表すと入江康博は超スーパーフォークデュオの「アリス」を音楽ルーツとしており、アルペジオ奏法、ストローク奏法において個性を発揮した。後期にもっとも影響を受けたのは「杉山清貴とオメガトライブ」である。安東保志は高校時代に当時スーパー人気バンド「TOTO」のカバーバンドに参加しており、スティーブ・ルカサーの影響を大きく受けていた。現在も今剛や松原正樹より大きく影響を受けており、いわゆるその線が好きということである。春野満はこのバンドの要と言える音楽性、理論を兼ね備えており、一目置かれるべき存在であったが、メンバーがそれに気づいたのが近年であったのが悔やまれる。全体的には男女の恋沙汰を優しく歌い上げるというスタイルを貫き、一部の女性ファンに支持された。2019年の活動再開後はゲストパフォーマーのメイをメインにおき、「T-STAFF39 with メイ」として活動し、あいみょん、椎名林檎などのカバーでリハビリを行っている。
楽曲作成
T-STAFF39では作詞作曲はそれぞれのメンバーが行う。自身の曲は自身が歌うというスタイルであった。
出来事
高校卒業後、各自の高校時代の経験を活かした集大成とするバンドを作るべく、橋本俊之のよびかけでメンバーを選考。当初はボーカルを橋本ら 「FeCr(フェリクローム)」 のメインボーカル、槙野裕史としていたが、大学受験問題で活動断念したため、各自がボーカルを取るというスタイルとなった。入江、安東、春野の3ギター、中田のベースという構成であったが、中田が脱退、バンドの要は一番うまいやつやろ!とか言ったか言わないか春野がベースを担当する。
各自がお世辞にもうまくない歌を歌わざるを得なくなったため、歌唱力が極めて低い。
彼らはしばしば高砂市の海に行っていい雰囲気になる(通称入江の海)。そこでのイメージが曲になったのかどうかわからないが、海を主題とした詩が多い。
練習は当時加古川市にあった「Music Paradise」(閉店)、神戸三ノ宮北野坂のスタジオ「バード」(閉店)などで行っていたが、佐々木宏の自宅で消音練習(通称テケテン)を行った。そのためか、佐々木宏はPearlの電子ドラム(シモンズのコピー)を購入した。最近父親に廃棄された。
ヤマハ「ポプコン」大阪地区大会にエントリーし、大阪梅田のバナナホールにて準グランプリの表彰を受けた。グランプリは「 尾崎和行&コースタルシティー 」。賞品は「ヤマハカセットテープ一箱」であった。エントリー曲は主力としていた、「とにかくActive」、「Dear…」であった。デモテープのレコーディングは甲東園のスタジオで行った。とくに大江千里さんの影響を受けたわけではない。
須磨海岸のライブでは佐々木宏がコスチュームを忘れるという事件があった。他のメンバーがキメキメの衣装のなかTシャツと半パンでしのいだ。ステージ上で「扇」の組体操を行った。ステージ上がクソ暑いなかチューニングが狂いまくったが、概ねよいステージであった。
1984年の高砂市民会館のコケラ落としのライブイベントで安東保志が「こけら落とし」を「筆おろし」と言い間違え場内が騒然となった。
1987年の解散ライブはワンマンでの開催であった。(加古川市民会館小ホール)あまりの席数に来場者が来るかどうか危ぶまれたが、当日加古川西高校の同窓会が近所で行われており、その流れでの来場により満席状態となった。ステージはリハーサルが順調にできず、本番でのトラブルが連発したものの本人たちにはよいステージとなった。 佐々木宏の父親の尽力によって、当日のメイキング映像、本番の映像も奇跡的に存在する。
岸クラブ
1986年頃T-STAFF39メンバーは蕎麦の製造工場(加古川市大西食品)で夜勤アルバイトに従事。夜明けに終業するとメンバーは工場前の凍った池に石ころを滑らすように投げあった。その石ころが向こう岸に届いた者は岸クラブの正式メンバーとして認められた。(注)岸クラブ :将来国会での活躍が期待される記者クラブの登竜門とされた。(かどうか疑わしい)メンバーの80%が投じた石ころは向こう岸に届き岸クラブメンバーに認定されたが、残念ながら春野満だけは正式に岸クラブメンバーに認定されることはなかった。
2019年の活動再開以降
佐々木宏が「死ぬまでにやらなあかん」発言をし、スケジュールのあうメンバーと仲間の助けを得て再開することとなる。マルチパフォーマー、メイスンと偶然出会った怪しいおじさんたちというポリシーで、おもしろく楽しくリハビリ継続中である。練習はライブ前に一回だけという相変わらずの感である。練習スタジオは中崎町の「ぐび」をメインとしている。